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その他「パイロットの話(適正検査編)」

2018年7月4日

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 ニュースレター 番外編 (山西様/SCD2国内分科会フェロー)   (テーマ:「その他」)
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 CIGRE SCD2フェローの山西でございます。皆様と同様、職業柄飛行機での移動が多く、会社に出勤するより空港に行く回数の方が多い私ですが、この原稿を執筆するにあたりこれまでの搭乗回数を改めて調べてみると、1000回をゆうに超えていることがわかりました。かのイチロー選手がメジャーリーグで10年連続200本安打という記録を残したことはつとに有名ですが、この私も10年連続100フライトという記録を持っていることになり、名球会ならぬ名翼会(そんなものは実際にはありませんが)の入会資格を得ることができそうです。そんな私には、航空会社の顧客プロファイルに旅行代理店のツアーコンダクターとして登録されていた時期があったようです。私を乗せた便が一旦離陸した後、到着地天候不順により引き返しを余儀なくされた時に、チーフパーサーより、
「山西様がご引率されていらっしゃるお客様に影響はございませんか」
と不意に聞かれ、ポカンとしてしまったことを憶えています。私の反応をみたチーフパーサーがギャレーに下がり、なにやら書類を確認した後で私の所まで戻ってきて、
「私どもの名簿には、山西様はツアーコンダクターでいらっしゃると書かれているもので」
と説明をうけたのです。どのような経緯でそのような登録に至ったのか非常に興味が湧きましたが、その場でではにこやかに訂正するに留めておきました。今考えても不思議な出来事です。
 
 さてそんな、飛行機で暮らしているような生活を10年以上続けている状態の私ですが、航空機のパイロットを志望し、某航空会社の採用試験を受けた過去があります。もちろん、現在の職業がパイロットではないことから結果は不採用だったということは明白なのですが、 最終選考に至るまで非常に貴重な体験で鮮明に記憶に残っており、ご出張で飛行機を利用するする機会の多い皆様にもご興味を持ってもらえるのでは思い、その内容を共有したいと思います。かなりマニアックではありますが、普段知り得ない内容かと思いますのでご一読頂けたら幸いでございます。
 
 そもそも始まりが矛盾だらけなのですが、パイロットになりたいという希望を持っていたとはいえ、その時点では私は一度も飛行機に乗ったことがなく、むしろ高所恐怖症とあいまって旅客としては飛行機には乗りたくもないとさえ思っていました。しかし、自身で操縦できるものならばその恐怖心もないだろうと楽観的に考え、採用試験に申し込んだのです。恥ずかしながらパイロットという職業にはただ漠然とした憧れがあっただけで、明確な動機も、目標に向かう強靭な意志も持ち合わせていませんでした。人気職業ということで応募者もかなりの数に上っていたこともあり、心の底では到底合格は無理だろうとは感じていたと思います。
 
 当時大阪で暮らしていた私は伊丹空港の某航空会社事務所に入り、筆記試験、面接を2回、また英語の試験を受け合格、次の段階に進むところ まで来ていました。(脱線するようですがこの英語試験の合格には以前Let’s Talk aboutにてご紹介いたしましたイメージ英語が役立っています。よろしければそちらもご参照ください)
 
 大阪の下宿先に飛行機のチケットが送られ、次の試験は羽田で行う、という内容の案内が同封されていました。生まれて初めてのフライトがパイロット試験を受けに行く移動だったのです。購入手続きと搭乗手続き等の違いもよくわからず、両親に電話をかけてどうやって飛行機に乗ったらいいのかと相談する始末で、同じく飛行機経験のない両親が親戚に聞いてまわるなど、飛行機ともっとも縁のない人種なのではないかとさえ思える状態でした。ようやく搭乗できた後も、発進時の加速感と轟音に手に汗を握りしめ、目をつむって離陸の瞬間を迎えた事を今で鮮明に憶えています。(また脱線するようですが、今では離陸時の加速感とそのエンジン音で機種が分かるようになっています。ちなみに、ボーイング767の、一瞬ためてから一気に爆発してシートに背中が押し付けられるようなあの加速、とくにプラットアンドホイットニー製エンジンの力強い発進が私の一番のお気に入りです。 目下の所、次はエアバスA380の加速を味わってみたいのですが、シンガポール、またはドバイに行かない限りは搭乗すら叶わないのが難点です)
 
 さて話を戻します。祈るような一時間を過ごし羽田空港に到着した私は案内図を片手に某航空会社の事務所に入り、案内されるがまま会議室に通されました。そこには5人のライバル達がすでにそれぞれ席についており、なにやら飛行機談義に花を咲かせているようでした。いかにパイロットという職業になりたいかということを雄弁に語る彼らに対し、初めて飛行機に乗って来ましたなどと言える訳もなく、まだ乾ききっていない手の汗を強引にズボンにこすりつけながら挨拶を交わして私も席についたものです。間もなく教官らしい中年男性が現れ、自己紹介もそこそこにこれから行う適性試験についての説明を始めました。
 
 試験は二日間にわたり、初日は座学、二日目はフライトシミュレーターを使った飛行機操縦試験ということでした。座学では飛行機の航行に不可欠な流体、空気力学や、機体操縦の仕組み、各計器の読み方とフライトプランの内容に関する説明があり、すでにその時点であたかもパイロットの訓練が始まっているような様相を呈していました。他の5人は事前知識があったようで何気に聞いていたようでしたが、その全てが初めて聞く内容だった私は大学でも見せた事のない必死の形相でノートを取り、休憩時間にも暗記を繰り返してなんとかその「授業」についていったものでした。旋回中は揚力が減退するため操縦桿を引いて機首をあげる プルバック動作、反対に旋回状態から水平飛行に移るときには揚力が増すため操縦桿を押して機首を下げるプッシュフォワード、二人いる操縦士のいずれが主体的に操縦を行うかをやりとりする、アイハブ、ユーハブのかけ声、など本格的な操縦に関するものでした。そういえばその当時でこそシミュレーターを使った飛行適性試験になっていましたが、以前は実際にセスナ機を飛ばして操縦する試験だったようで、その真剣さはなるほど実際の機体操縦と変わらないのだ、と思ったものでした。その授業の後、翌日の本番に備え一度だけシミュレーターで練習さえてもらえるとのことで、 確かボーイング737のシミュレーターだったと記憶していますが、そのコックピットに乗り込みました。一面に並んだ計器類とディスプレイ、操縦桿やフットギア等は、当たり前ですが本物の飛行機と同じ様子でした。その操縦席に座りフライトプランの説明を受け、隣に座っている教官からアイハブ、ユーハブの操縦主体を受け取るところから練習を始めました。フライトプランを明確に記憶し、どの高度まで上昇するか、何マイル飛行したあとで、どの方角に旋回するか等を頭に描きながら、そのイメージ通りに操縦桿とフットギアを使うのですが、腕が思うように動きません。緊張のあまり力一杯操縦桿を握りしめて体が硬直していたようでした。
 
 3次元の移動というのはこんなに難しいものなのか、と痛感したものです。高度のバランスととろうとすると方角がずれ、逆もまた然りでした。しかもフライトプランを正確に記憶しておかねばならず、その脳と体の疲労たるや想像を絶するほどで、10分程のフライトが終了した時には全身汗だくで、しかも手が操縦桿から離れない程筋肉が疲労していました。コックピットから出ると、フライトレコーダーから送られた私のフライト内容が既にプリントアウトされており、小刻みに揺れながら航路を進んだ形跡がありありとわかりました。おそらくこんなフライトを実際の飛行機で実演したならば、旅客の半分はエチケット袋を使うことになるのでは、と思えるような内容で、涼しい顔で荷物を纏めているライバル達を尻目に私は半ば絶望しながら初日を終えました。
 
 その晩はライバル達5人と夕食をともにし、再び飛行機談義を繰り返しました。5人のうち3人は父親が現職のパイロットということで二代にわたって同職につかんとする者達で、事前に試験内容を把握しているという理由がそのときになって分かりました。特に北海道から来た浅利君、京都から来た森田君は6人の候補者の中のさながらツートップという様相で、お互いに牽制しあっている様子さえ伺えました。一方、私はもうそのころになるとはじめてのフライトでこの東京にやって来た事も暴露していたので、ライバル達からは私など相手ではないとの見下しから私に対してはむしろとても和やかに接してくれていました。
 
 ホテルに戻り、座学内容を復習して早めに就寝したのですが、翌朝全身が筋肉痛に襲われていることに気付きました、操縦桿を10分握っただけで全身筋肉痛とはそもそも適性がないのだと自分に言い聞かせ、もはやあきらめて途中棄権して大阪に帰ろうかという思いも一瞬頭をよぎりましたが、少なくとも何かの記念になるだろうとの考えから再び事務所を訪れ、運命の本番試験に臨む事になりました。
 前日とは異なるフライトプラン、さらに練習時にはなかった乱気流の発生や、トラブル発生等突発事態への対応力も試験内容に加わるとの説明があり、その時点で私はむしろある意味晴れやかな気持ちにさえなっていました。肩から手の親指の付け根当たりにかけて筋肉痛はまだひどく残っており、操縦桿を軽く握るだけで精一杯の状態でした。
 
 試験本番のフライトプランは一段と複雑になっていましたが、その時点ですでに思い出作りモードになっていた私は、その航路が、鈴鹿サーキットのコース表に似ているな、などと思ってしまう程緊張感を失ってしまっていました。そんな状態の中で前日の座学の復習を簡単に行い、試験実施の順番が決まったのですが、森田君がトップバッター、次いで浅利君、私は6人目ということで最後となっていました。はからずも期待値の表れだろうかと半ば苦笑しながら私は順番を待つことにしたものです。
 
 試験も本番となり、練習の際には余裕の表情を見せていた先のツートップもさすがに緊張の面持ちで試験に臨んでいたようでした。試験は一人当たり20分程度だったかと思いますが、二人とも試験終了後コックピットから出てきた際には、憔悴しきった表情でへたり込むように待合室の黒いソファに腰をおろしました。 
 
 3人目、4人目、5人目も終わり、ついに私の順番がやってきました。悟りの境地に達していた私ですが、さすがにコックピットの座席に着いて教官とのフライト前の点検を行っていると徐々に緊張感が甦ってきたようでした。まだ肩から指先にかけての筋肉痛は私の握力を奪っていましたが、とにかくやってみよう、という気持ちで私のボーイング737は離陸したのです。
 
 5分程かけてゆっくりと指定高度まで上昇した737は順調に水平飛行に移ったのですが、ここまでは自分でも驚いてしまうほどスムーズなフライトでした。続いて、プランに示された通りに90度の右旋回。揚力をコントロールしながらこちらも滑らかに切り抜けることができたことで、私の中には希望が芽生え始めていました。この調子なら、と。  
 
 しばらくの水平飛行に戻ったのですが、ここでなにやら機体の挙動がおかしくなってきました。気流の乱れた空域に入ったようです。機体が予想外の動きをする度に計器類を確認し、適切な操作を都度判断、体制を立て直しながらようやく乱気流空域を抜けることができたのですが、もうその時には私の額からは汗が吹き出していました。異常なまでのアドレナリンで筋肉痛も消え去っていたのですがそのことにさえ気付かず、操縦桿に私の硬直した手を張り付けたまま737は巡航を続けます。しばらく乱気流と旋回を繰り返すうちに要領を掴んだ私にフライトも終盤にさしかかる中で、トラブル発生という試験内容とはいったい何だったのだろう、という疑念が湧き上がりました 。そのとき、もう私のフライトも最後の左旋回を残すのみでした。乱気流だと思っていた機体挙動の乱れがトラブルだったのだろうか、と思い、それならばもう大丈夫だ、と勝利を感じ始めながら最後の旋回に入りました。袖口に4本線の入った機長の制服に身を包んだ20年後の自分をほくそ笑みながら想像さえしながら。
 
 その左旋回はほぼ180度で、長く時間をかけてゆっくり旋回をして行きました。序盤は順調です。高度、航路を外す事無くとてもスムーズな旋回だったのですが乱気流がまたやってきたのです。旋回中の乱気流は今回が初めてで、挙動も水平飛行中のものと著しく異なっていました。揚力のコントロールがうまくできないのです。機首が微妙に上下し機体が不安定に揺れ始めました。私はいくつもある計器類を素早く確認しながら、なんとか体制を立て直すべく、操縦桿とフットギアを操作しようとしました。そのときです。となりにいた教官が発した言葉に私は思わずパニックに陥りました。
「今から3桁の暗算の問題を読み上げますので口頭で回答してください」
しまった!これがトラブルという試験内容か!と後悔したときは時既に遅く、教官は冷淡な口調で問題を読み上げました。頭の中で計算をしている時間は長くはなかったとは思いますが、高度が急激に下がり始めていることにふと気付きました。視線はずっと計器類に向けてはいたのですが、脳がその機能を暗算に割り当ててしまっていたために、クルクルまわりながら低下を知らせる高度計に全く気付かなかったのです。まさにこの試験が狙っているとおりのミスを犯してしまったのです。必死に、しかしながら慎重に、私はエンジン出力を上げ、操縦桿を引きます。暗算はまだ終っていません。高度を戻しながらなんとか暗算を終えた私は教官に向かって回答しましたが、正解かどうかについての自信はまったくありませんでした。まだ乱気流も収まっておらず、鬼教官も二問目にうつるべくその薄い唇を開こうとしていました。私はとっさに自分の脳を明確に右脳と左脳とを分離するイメージで、操縦と計算を同時に並行して遂行する準備を整えました。乱気流と暗算に同時に立ち向かうのです。次は引き算の問題で更に難度が増していました。計器確認と操縦は右脳、暗算は左脳にタスクを割りあて、どちらにも偏らず処理を行うことを心がけると、一問目よりは余裕をもって 切り抜けられました。機体も安定しており、高度、方角ともにプラン通りに復旧していました。  
 
 そうして旋回も終わり最後の水平飛行に移ったところで、最後の決め台詞である、ユーハブを私が発し、教官がアイハブと答え、操縦主体を私は手放して試験は終了しました。ツートップでさえ疲労困憊したのですから、私などに至っては、もはや自力でコックピットから出ることもままならない程に疲れ切ってしまいました。
 抜け殻と化してはいたものの、お互いの健闘をたたえ合い、また会おうと挨拶を交わした6人はそれぞれの帰途につきました。もちろんこの内の何人かは不合格になることはわかってはいましたが。大阪への帰り、私の人生二回目のフライトでは、もはや離陸したことも記憶にないくらい早く眠りに落ちていました。
 
 二週間後、某航空会社から合格の連絡を受けた私は最終試験に向けて人生三度目のフライトで再び羽田に向い、そこから今度は、案内に従ってとある医療施設へと趣きました。その集合場所には、浅利君と森田君がすでに到着しており、お互いに気付いた我々は一様に笑顔でお互いの合格と再会を祝ったのでした。ツートップからするとまさかオッズ最下位の私が選考に残っていたとは予想もしなかったでしょう。
 
 残り3人、最終選考は椅子取りゲームではなく、基準を満たす者はすべて合格、つまり全員合格の可能性がある旨が伝えられました。今この瞬間からこの3人はライバルではなく、同志である、と。
 
 最終試験は第一種航空身体検査。この身体検査も通常の健康診断とは全くもって異なる特異なもので一筆に値するものです。文字数の関係で(すでに大幅にオーバーしている状態で、何をいまさら、とのお叱りは覚悟の上で)今回は省略させて頂きますが、再度私に執筆の機会を頂けるものならば、身体検査編をお送りさせて頂きたく思っています。もちろん、この身体検査で私は不合格となったわけですが、例の同志達の合否結果をその後知る事なく今に至っており、時々 今でも彼らの合否が気になることがあります。
 
 その同志3人も今はもう40歳になります。パイロットの世界であればそろそろ機長になっていてもおかしくありません。2年程前から、私は飛行機に乗り込む度に機長アナウンスを注意深く聞くようにしています。機長の自己紹介、あの懐かしい同志2人の名前を聞けるのではないだろうかとの思いを馳せながら。